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東京書芸学園スタッフブログ

公爵の書

2016/03/02

こんにちは。指導部の村上です。


過日、所用で元赤坂にある「明治記念館」を訪ねました。



明治という時代を感じさせる重厚な和風建築で慶事の式典や会食に利用される会館です。ロビーや廊下には日本画を配して目を楽しませてくれますが、横山大観や奥村土牛、東山魁夷といった巨匠の作品がずらりと飾られています。それらを集めたら美術館にもなりそうな作品の数に驚いてしまいました。



話は変わって、記念館の入り口に苔帯びた石碑が訪れる人々を迎えていました。表面にはこう書されています。


「憲法記念館」公爵徳川家達書




見過ごしがちな石碑ですが、刻された文字が実にしっかりした楷書なので、足を止めて眺めました。するといろんな疑問が頭の中に生じます。



明治記念館ではなく、憲法記念館って?


徳川家達って、だれ?

将軍家徳川に公爵?


調べてみると、明治記念館のホームページに「歩み」が載っています。それによると、

明治14年(1881年)赤坂仮御所の別殿として竣功。

明治21年(1888年)別殿にて明治天皇御親臨のもと、帝国憲法・皇室典範の草案審議が、 前後十数回にわたり行われる。

明治40年(1907年)明治天皇は、憲法制定に功績のあった枢密院議長伊藤博文公に別殿を下賜。

明治41年(1908年)東京府下荏原郡大井村の伊藤公邸へ移築竣功「恩賜館」と命名。

大正7年(1918年)伊藤公邸より現在地に移築竣功。「恩賜館」を「憲法記念館」と改称



なるほど、赤坂仮御所の別殿として建てられ、そこで憲法の草案審議が行われたので憲法記念館の名が付いた。


その前に一度、伊藤博文公に下賜されて恩賜館となり、現在地に移築後、改称ということが分かりました。さらに現在の明治記念館になったのは昭和22年とありました。



公爵徳川家達を調べると、まず姓名は「とくがわ いえさと」と読む。
徳川宗家の16代当主にして、明治のころに爵位を賜り、従一位大勲位公爵を叙任。なるほど時代が変わって殿様が貴族になったという次第。日本の爵位は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順があるので筆頭爵位に叙された歴史上の人物。


貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、日本赤十字社社長などを歴任する中で、大正4年に明治神宮奉賛会会長に就任している。ここで繋がって石碑の文字を揮毫したということでしょう。



ふむふむ、改めて見ていると、あれ?署名の文字は公爵ではなく、他者が書き添えたのではないだろうか。どうも主文のがっちりした筆力に比べて小文字とはいえ弱い。また自分で自分に公爵とつけるかなとも思う。ん?



石碑には憲法記念館の由来が隣に記されています。



本館は、で始まる文章だが書的にはおもしろい。漢字はどことなく顔法の香りがして重厚ながら、かなは行書風のひらがなで、中には変体がなもある、なんと漢字とかなの不釣合いな、と思うのだが、考えると明治33年、平安古筆のひらがなの内、小学校令施行規則の第一号表に示された48種の字体は行書風で変体がなも混じっている。たぶんだが、言文一致もあって、漢字とかなを混同したらこんなになったのではなかろうか。いまなら自然に楷書風ひらがなをあてて書くはずを。



いろいろ時代を感じさせる一品でした。
では、また他日に。

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