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東京書芸学園スタッフブログ

セイセンスイ2

2015/08/25

こんにちは。指導部の村上です。
秋の日が待ち遠しいですね。この暑さを鰯雲がはやく払拭してほしいものです。



以前、セイセンスイと題して一文を載せました。


その荻原井泉水の随筆を最近読みました。
昭和三十六年刊、井泉水77歳の著作です。


作中の「心づかい」という章は「礼儀」について、英語の「エチケット」との違いを述べています。

「(前略)その心づかいのうえにやはり違いがある。アメリカのは公式的である。形式的でもある。日本の儀礼は、多分に形式化している点もあるけれど、形式にかかわらない、個人的に行きとどいた心づかいである。ヒダのこまかい心づかいがある。(後略)」




その例として、小説家、上司小剣の母親という人の心づかいを挙げています。



その人は、玄関の障子を新しく張り替える時、わざと二三か所に穴をあけて、そこを切り張りするという。真新しい障子は、張り替えましたよとこれ見よがしで、客人への儀礼ではない。だから切り張りを施す。


いかにも明治の婦人の心づかいで、常識的に考えると、新しい障子で客人を迎えたいと思う。しかし客人はうっかり粗相もできないと窮屈な思いをするもので、切り張りは心づかいのニュアンスが細かい。
といい、井泉水は現今の日本に絶えたことの寂しさを述べています。が、続きがあって、この障子は芸が細かすぎるともいう。一種のジェスチャーに近いのではないか、素直に自然に任せてよいのではないか。先回りして考え過ぎると「遠き慮り」すなわち遠慮だ。心づかいは行き過ぎてもいけない云々。



 また「家庭料理」という題では、旅館や料亭の食事が口にあわない。家庭料理ほどうまいものはないという。


なぜかというと、旅館や料亭の料理は万人向きのもので、最大公約数をとった料理で、こうした公式的なものでほんとうにうまい料理のできるわけはない。昔のシナでは中流以上の家には専属のコックがいて主人の口にあう料理を作った。


そこで芭蕉の言葉を引いて「万人にかなうことは易し、一人にかなうことは難し」世間の万人向きのするような通俗的な句をつくることはやさしい、本当の具現者を感じせしめるような句を作ることは難しいものだ、と結んでいます。


どんな名コックの料理も家庭料理には敵わない。おかあさんが家族を思って作り、家族で賑やかに食べるのだから敵うわけがない。これは私見です。



そこで私はいい言葉を見つけたので「万人にかなうことは易し、一人にかなうことは難し」を10月に開催する紅霧書展(10月23日(金)より25日(日)会場:明治神宮「参集殿」入場無料)に出品することにしました。さて、どんな風になるやら・・・。



前回に続いて井泉水の一筆をご披露します。



「今日、團伊玖磨にあいまして貴校校歌のことたのみました。急ぐから早速やってくれ、と申し入れましたところ、快く、なるべく早く作るとの返事でありました。でき次第御送り申上げます。」


昭和26年9月2日の葉書です。



荻原井泉水と作曲家 團伊玖磨が一緒に小学校の校歌を作った消息を伝える一端です。
文字については前回に申上げましたので、今回はこのままご鑑賞ください。

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