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東京書芸学園スタッフブログ

センセイスイ

2013/07/02

  蒸し暑い日が続きます。
 今日は、大正から昭和にかけて活躍した俳人に萩原井泉水のお話しです。

題して「セイセンスイ」 
俳人 萩原井泉水は、世には「自由律俳句」の創始者として知られている。
また書も絵もよくした作家である。

 俳人の号は自分の感じからすると、変わった号が多い。
「井泉水」もその一つ。
子音にSが多く、その響きに惹かれて、どんな作家か関心をもった。
まず「自由律俳句」とはどういうものだろう。
彼の作を見てみよう。


 更けし心に赤き小き火をうづむ  大正六年作

 遠い蛙かよ           昭和六年作

 雀、えだに鳴く聲のえだの影で  昭和九年作


 私が学校で習った俳句とも、よく新聞などで見かけるものとも随分と違う。
読点さえある。私のような素人には首を傾げる詩文である。
俳句というのは五七五にかならず言葉を整えて、
かつそこに季語を盛り込んで一つの世界を表現したものと習ってきた。
そうでないものも俳句なのだろうか。
文字数に囚われず、なんでもいいから短いことばで表現すれば、それは俳句なのだろうか。
井泉水は歴とした俳句という。
むしろこうあるべきだと提唱する。
だが何かしら基調となるものがある筈だ。
なんでもいいわけはなかろうと思う。

 井泉水は「詩としての俳句」とした上で、
「詩が定型的表現を離れて自由表現に生きるという事は、
音調を第二にしてリズムを第一とすることである。
耳、舌等の感覚的世界よりも一層深い精神の波動を伝えようとする事である」
また「定型にはまらず、外在的形式と妥協せずして、
しかも緊張した心を投影したるリズムの出ているものが本当の詩であり、又、本当の俳句なのである。」
と述べている。
精神の波動を伝えようとする事、緊張した心を投影したるリズム、
この二つがどうも重要であるらしい。

 まだピンと来ないところはあるのだが、俳句のことはこれくらいにして、
彼のはがきを入手しているのでお目に掛ける。
2013.07.jpg

 昭和二十六年、井泉水67才の筆だが、このはがき、よく見るとタダモノではない。
はがき面いっぱいに書いているのに、窮屈さを感じないのは下方に余白を残しているからだが、
もうひとつ隠し技を秘めている。各行とも下へ行くほど文字を小ぶりにまとめている。
もしくは縦長に伸ばして行尾を引き締めている。
書き出しの秋という字を大きく書いて、まずゆったりとした文字の印象を与えておいて、
それから行の先を細めるように書いていく。
行頭の行間より行尾の行間を広くとっていく。
しかもさりげなく。
全体の窮屈を感じさせないのは、そういう仕組みを施しているからで、
何気ないようで技が生きており、またペンの線がゆるゆるとした調子で
多少の滲みもあり、ほの温かい感じがジワリとする一筆になっている。
 
 最後に一句をそえて擱筆します。


 人に逢ひし草いきれだまって過ぎし 井泉水


 大人というのはさびしい生き物だ。
 明るく挨拶する人は幸福である。
 寂しき者は黙して礼す。

 これから夏である。


『筆心』7月号巻頭言より

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