2013/10/25
春、お付き合いのある書道具屋さんに硯の生産者を尋ねたところ、
「それでしたら雨端さんがいいよ。ご紹介しますよ」
快くご紹介くださり、私は頂いた連絡先へさっそく電話でご挨拶を申上げた。
私どもの会では教材紹介にカタログ「書宝」を発行しています。
これまで硯の中でも和硯、日本で生産される硯を紹介してきました。
宮城県の雄勝硯、山口県の赤間硯です。
私は現在発行されている書宝秋号に山梨県の雨端硯を掲載するため、六月に鰍沢へ赴きました。
新宿から中央線でまず甲府へ行って、そこから身延線に乗り換えました。
甲府駅は大きな駅です。その端から一本延びているのが身延線でした。
しかも駅は無人駅。
運転手ひとりが乗客を運んで無人駅に停車するだけなのです。
と私は乗客の様子を窺っていました。
駅に停車して見ていると、乗客は後ろを向いた運転手のところまで行って切符を渡しています。
次々に渡しては先頭のドアから降りていきます。
なるほど、こうすれば無人駅に降りることができる。
自分の切符は新宿から鰍沢です。もう一度切符を確かめて鰍沢を待ちました。
いよいよ駅が近づきました。
切符は運転手さんかに渡すのではなくて、設置された青い箱に入れて降りるのでした。運転手は私の切符を見て頷きました。
鰍沢駅は山の中にあります。
駅から見る観光案内図の左下に硯の絵がありました。確かにここは硯の生産地です。
鰍沢口駅はまぎれもなく改札のない無人駅でした。
私がこの鰍沢に訪ねる硯工房のご主人です。駅を抜けると氏が迎えてくれました。
前日に時間を伝えたところ、わざわざ車で迎えに来てくださったのです。
お礼とご挨拶を述べて、氏の車でさっそく工房へ向かいました。
「駅でよく私がわかりましたね」
「なに、東京から来る人は見ればわかります」
氏は気さくな方でした。車は大きな川に沿ってしばらく走りました。
氏が運転し、私は後部座席から硯の話を交わしました。
案内された店舗に硯が展示されています。すべて雨端硯です。
硯に詳しい方ならお気づきかもしれません。
しかし雨宮氏は「雨端」の文字を用いていました。それには理由があります。
「雨端硯」は硯匠として代々受け継がれてきた「雨宮硯本舗」にのみ与えられた称号なのです。
八代雨宮純斎が東京帝国大学の中村正直教授から、
「甲州之天機硯者。吾邦之端州硯也」
とその品質の高さを評価され「雨端」の号が与えられたのです。
現代の硯匠 十三代目 雨宮弥太郎氏がその伝統を受け継いでいます。
また氏は硯作家です。銘を打った創作硯を発表して注目を集めています。
雄勝硯は石肌に艶があり粋な硯です。赤間硯は石色が赤みを帯びた美硯です。
この雨端硯は黒くどっしりとして重厚な趣があります。
石肌もしっとりとして良硯の印象を持ちましたので、実用硯として、
と、雨宮氏が雲形を施した彫刻硯、
を書宝で紹介することにしました。
彫刻硯ももちろん実用硯として使用することができます。
また雨宮氏に雨端硯の原石を見せていただきました。
変哲もない石の塊ですが、職人の手によって磨かれ、うつくしい硯として世に出て行きます。
せっかくなので氏に工房を見せていただきました。
店舗から少し離れた所に、氏の父雨宮弥兵衛を掲げた工房はありました。
伝統を有する工房の風格があります。
作業場はいままで職人さんがいたような佇まいで、
必要な道具がそこら中に転がっています。まさに工房の現場ですね。
雨端硯について氏はこう語ります。
「雨端硯は墨を選びません。良硯に出逢う喜びをぜひ味わっていただきたいですね」
制作者である氏に硯の彫り方を見せていただきました。
鑿を肩に当てて彫ります。手で彫るのではなく、体で彫る様子がわかります。荒削りした後で表面を調えます。
雨端硯は自然に囲まれた鰍沢で生まれ、雨宮氏が伝統を守りつつ、
作家として新たな硯の魅力を引き出し、世に問い続けています。
作家魂としての挑戦がそこになければできない仕事です。
雨端硯が永く残ってほしい。そう願わざるをえません。
雨宮弥太郎先生。お世話になりました。
自分も勉強になりました。この度はありがとうございました。
店舗に戻って今後の打合せをして氏と別れました。
氏とともに暮らす猫君は気持ちよく寝ていました。
残念ながら彼にさよならを伝えることはできませんでしたが、
これからも雨宮氏のそばで氏の仕事を助けてくれることでしょう。
私も雲形硯を求めて愛用しています。
硯と共にあるのは硯の残り墨を落とす箒です。鎌倉で求めました。
使う者の心得として、いつもきれいにして置きたいものです。
またいつか、書道用具の工房を訪ねたいと願っております。
墨、紙、筆、それらが生まれる工房に学ぶことで道具を大切にすることを知る。
永く愛用し楽しむことの心得だと考えます。
それは硯に限ることではありません。物の心を知ることは重要です。
長くなりましたが今回はこれで失礼します。